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堀の周辺を元気に駆け回る子どもたちを、 風にそよぐ柳が優しく見守っていたあのころ。 驚異的な経済成長を経て、 先の見えない混迷の21世紀をむかえ、今、 私たちは自分たちの街・新潟を見つめなおそうと しています。 あなたはこれからの子どもたちに、 “新潟”の何を伝えていきたいと思っているでしょうか。 |
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昭和30年代の古町通りは、夕方になると東堀や西堀の路地から七輪でイワシを焼く煙とにおいが立ちこめてくる、そんな下町の風情が残っていた。まだ堀も柳や桜並木とともに、きれいな流れを残し、食器を洗う主婦の姿も記憶にある。いつのころからか、流れもよどみ川も汚くなり(天然ガス採取ため地下水をくみ上げすぎた地盤沈下のせいと知ったのはずっと後になってからのこと)、子どもたちが△△△舟と呼んでいたし尿を運搬する舟が目立ち始め、ハエや蚊の発生にも悩まされるようになった。昭和39年の新潟国体を控え、堀も埋め立てが始まり、立派な4車線道路に生まれ変わってしまった。 昭和30年は新潟大火で幕を開けた、印象だ。子ども心に東中通方面が真っ赤に夜空を焦がし、幼児の頭大ほどの火の粉がばんばん飛んできて、歯ががちがちと鳴りやまなかったことを覚えている。 この時代は団塊の世代が小学生から中学生のころに当たる。とにかく子どもの数がやたらと目に付き熱気のようなものがあった。男児は町内単位あるいはもっと小さい単位で徒党?を組んで団体行動していた。必ずガキ大将とも言うべきリーダーがおり、けんかで決着が付かないときはガキ大将が話を付けることもしばしば。ある時は隣の校区の集団が縄張りを荒らしに来たと言っては、西堀のお寺で墓石を盾に石を投げ合ったことも。 塾と言えば、せいぜいそろばんか書道くらい。銭湯に行けば、知らない(怖いと思った)おじさんに「どこの子ら。前を洗って入れ」「耳の後ろはちゃんと洗え」などと厳しくしつけられた。雪が降れば、竹スキーや竹スケートで通りを滑った。そんなきかん坊たちも今やそれなりのオヤジになり、高齢化時代の先鋒を務めている。 文/楢崎 昌(ならさき しょう) 古町生まれ、古町育ちの55歳。当時マンモス校の一つだった白山小、白新中に学び、現在も古町に在住、古町の上(カミ)の変遷を肌で感じてきた。 写真提供/新潟市、新潟日報社 |
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